元ロッテ・黒木知宏 “魂のピッチング”の原点とエースの自覚「チームのために身を粉に、骨が砕けても投げ切る」

■受け継がれた「背番号54」

黒木のもう一つの代名詞と言えるのが背番号「54」。日本の野球界では投手の番号はエースナンバーと呼ばれる18番を始め、主に10番台を背負うことが多い。

しかし、黒木はこの54番を引退まで13年間着け通した。

「僕が54番を着けて、石田雅彦さんが僕と入れ替わりだったのですが、1年目のキャンプの際に『この54番をジョニーのために9年間温めておいたよ』という言葉をいただいたんです」

石田は桑田真澄・清原和博のKKコンビと同年代。川越工業高から85年ドラフト1位でロッテオリオンズ(当時)に入団し、背番号54を着けプレーした。しかし、故障などもあり94年限りで現役を引退し、以降は現在までロッテの打撃投手を務めている。

「石田さんの想いを込めて、もっと世の中に広めていきたいというのもありました。なのでずっと54番にこだわってきました」

主力となった後、社会人時代背負った11番やエースナンバーである18番を提示されたが、変更することはなかった。

背番号54についてのこだわりも語った

■エースとしてフル回転

黒木は1年目の95年から20試合に登板し5勝、翌96年には8勝と頭角を表していく。97年は15敗ながら12勝と初の2桁勝利、リーグ最多完投(13)を記録し、98年には冒頭の通り最多勝と最高勝率のタイトルを獲得。

99年には初の開幕投手を務めるとともに自己最多の14勝を挙げ、小宮山悟・伊良部秀輝らが築いてきたロッテのエースの系譜を受け継いでいった。

特に、97年の240.2回を含め99年までの3年間は平均投球回数は約217回と、チームのためにフル回転していた。

特に98年は今も日本記録となっている18連敗中、先発から抑え、再び先発に戻るなどポジションが変わることもあった。それでもチームの勝利のため腕を振り続けた。

「チームが優勝するために若い自分が先頭に立ってやらなきゃいけない・自分の身を粉に、骨が砕けても何でもなんとか投げ切ろうという想いでずっとやってきました」

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