1988年のダンロップレディースオープン初優勝、1989年からアメリカツアーに挑戦した
――そして、いよいよ米国ツアー挑戦が始まります。
中嶋:最初の頃、アメリカ生活は試合も日常も面白くて仕方がありませんでした。全部一人で対応するので、飛行機の乗り方から荷物の取得、ホテルまでの移動方法、レストランでは頼んだ料理が自分のイメージと全く違うものが運ばれてくる。英語のヒアリングが悪すぎて日常がコントのようでした(苦笑)。
米ツアーは結果的に2年で撤退しました。一番の要因は、自分のスイング分析ができなかった点にあります。強い選手を見て「ここがいい!」とやってはいけないポイントを取り入れてしまったのが敗因。自分の良い所を置き去りにして、迷走しました。
当時の通信手段は国際電話だけ、日本の先生に動画を見て頂くこともできません。「米ツアーは勉強しに行くのではなく、”勝負をしにいくところ”」だと痛感。準備不足でしたね。
――渡米前にも、国内である出来事があったとか。
中嶋:アメリカツアー前に虫歯などの問題がないかの点検で歯科に行ったんです。そこで「その噛み合わせでは長くゴルフができないよ」と言われ「いやいやいやこれから!現役が短くなるのは困る」と考え、矯正しました。とはいえ、この時はマッサージ知らずの強い身体になっていたので、歯がそんなに影響するということには全くピンと来ていませんでした。
3年半後、ビシッと揃った歯、待ちに待ったブリッジを外す日を迎えます。「微調整をします」とだけ言われ麻酔を打ちました。終わって鏡を見ると、24本ある歯のうち16本が、驚くほど小さく削られていたんです。
「健康な歯をなんでこんなに小さく削るの? なんのためにブリッジ3年もやったの?」と隙間だらけの歯を見て、涙が止まらず、頭は真っ白になりました。その呆然とする私に「被せ物をする費用として300万円」と請求されました。
――それはあまりにもひどい話ですね。
中嶋:当時はまだ若く、社会のこともよくわからなかったので、ただただ早くこの状況を終わらせて、元の生活に戻りたいと思いました。でも、この治療が身体に大きな影響を及ぼすとは夢にも思いませんでした。
