1988年のダンロップレディースオープン初優勝、1989年からアメリカツアーに挑戦した
若くしてアメリカツアーへの挑戦を決意した中嶋千尋プロ。その華やかなキャリアの裏には、想像を絶する苦悩と孤独な闘いがあった。1988年、国内ツアー初優勝を機に、さらなる高みを目指した矢先に彼女を襲ったのは人生を大きく変える「ある事件」。それはプレーヤーとしての身体を蝕み、精神をも追い詰める壮絶な試練の始まりだった。(文中敬称略)
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◼️米国ツアー挑戦、そして突然の事件
――1988年のダンロップレディースオープン初優勝後、翌1989年からアメリカツアーに挑戦されました。
中嶋:実は、優勝する前年のオフに、アメリカツアーに挑戦することは決めていました。当時米ツアーでは岡本綾子選手が大活躍していましたが雲の上のような選手でしたのでアメリカツアーに挑戦しようという選手は長い間ひとりもいませんでした。そこに実績もない私が決めることになるのですが、それは今のうちに最高峰を見て自分を成長させたいと思ったからでした。
私が挑戦したことで「”私も出来るかも”と思って来ちゃった!」と小林浩美さんに言われ大笑いしたこともあります。その後も福島晃子選手、宮里藍選手ら多くの日本人女子選手が米ツアー参戦。皆さんに「勇気だけは与えた」と自負しています(笑)。
――小林さんはアメリカツアー初参戦が1990年でしたね。ところで1988年、ツアー未勝利でアメリカ行きを決断したのですね。
中嶋:米ツアー挑戦を心に決め、岡本選手に相談したところ、「ふ~ん、いいんじゃない。オフにフロリダに遊びにいらっしゃい」と言ってくださいました。周囲は「まだ早い」という反応でしたが、岡本選手と寺下先生は反対の「は」の字もありませんでした。
――それはなぜですか?
中嶋:きっと、自分で決めたことを尊重してくださったのだと思います。「上手くいこうが失敗しようが“自分で決めたこと”なら、そこから学べるステップアップできる」と大きな懐で受け止めてくださったのだと思います。前年オフに「自分で決めた」ということにより、見ようとする世界が変わった、それが初優勝を後押ししてくれたと思います。
