【シダックス 梅沢直充】「チームと一緒になって戦っている」という感覚がやり甲斐になっていた(第一回)

1991年に軟式野球部として発足し、93年に硬式に転向したシダックス野球部。99年に日本選手権で優勝、2002年にはプロ野球界屈指の名将・野村克也氏をGM兼監督として迎え入れ、翌年に都市対抗野球で準優勝を果たした。そのシダックスで野村克也監督付きマネジャーとして、常に野村氏と行動を共にした梅沢直充さん。第一回は生い立ちからマネジャーになるまで。

――梅沢さんは幼い頃、どんな子供でしたか? 

梅沢 直充(以下 梅沢):東京で生まれましたが、父の仕事の関係ですぐ山形市に移って5歳まで過ごし、その後、東京に戻り中野区に住んでいました。子供の頃はサッカーをやってたんですよ。

――野球ではなかったのですね。野球はいつから始めたのですか?

梅沢:(私立)攻玉社中学校に進学し、入学と同時に中学野球部(軟式)に入ったのがきっかけです。両親が野球好きで、特に父は法政大の野球部OBで東京六大学の審判員や公式記録員を務めていた影響もあり、巨人戦はほぼ毎晩テレビで観戦していました。当時は地上波で毎試合放送されていましたからね。家族で、後楽園球場で巨人vs大洋(現DeNA)戦や、神宮球場でヤクルトvs巨人戦を観戦したのを覚えています。

――中学からだったのですね。意外でした。ポジションはどちらですか?

梅沢:外野手です。チームの中では足が速い方でした。ですからセンターが多かったです。攻玉社は中学受験のため、小学生のとき野球をやっていても4年生ぐらいで一度中断して受験勉強に集中する生徒が多い。未経験者は同期12~13人ぐらいのうち半分ぐらいだったかな。ですから私でも背番号をもらえてやっていけたのかもしれません。初めてもらった背番号は8でした。学業と野球は半々ぐらいの中学生生活でしたね。

そのまま攻玉社高校に進学し硬式野球部に入部しました。軟式から硬式へ移行するとき、ボールのサイズや重さが変わり対応に苦しむ選手もいるのですが、私は問題なくスムーズにプレイできました。

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――梅沢さんの時代、攻玉社高校は強豪チームでしたか?

梅沢:私が入部するだいぶ前ですが、1979年と80年に東東京大会でベスト4に入りました。私が中学に入学したのは88年。その少し前に中高一貫校になり高校からの募集が無くなったので、スポーツ推薦などで入学する選手もいなくなった。だから中学野球部の生徒がそのまま、高校入学と同時に硬式野球部と軟式野球部に分かれました。私の同期は硬式に3人、残りの数人は軟式に行きました。

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