12.1新宿FACEで「KANREKI CARNIVAL」を開催するJBエンジェルスの山崎五紀(左)と立野記代(右)
1980年代、全日本女子プロレスの黄金期を駆け抜け、アメリカでも旋風を巻き起こした立野記代と山崎五紀――JBエンジェルス。それぞれの人生には数え切れない選択と葛藤があった。2025年12月1日、二人は還暦を迎え、「KANREKI CARNIVAL」で再び肩を並べる。かつて“ジャンピング・ボム・エンジェルス”として世界を沸かせた二人が、JBエンジェルス結成40周年を語った。(取材/大楽聡詞 文/ミライカ 文中敬称略)
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日本女性レスラーとしてアメリカで初めて大成功
――アメリカでの遠征期間自体は、そこまで長くはなかったですよね?
立野:最初は1987年6月から2ヶ月の短期サーキットでした。一時帰国して2度目が1987年10月から1988年3月、1987年11月に第1回サバイバーシリーズに参戦し5対5のエリミネーションマッチ(イリミネーションマッチ)で五紀と2人で勝ち残りましたね。
山崎:1988年1月のロイヤルランブルではレイラニ・カイ&ジュディ・マーチン(グラマー・ガールズ)を破ってWWF世界女子タッグ王座を戴冠しました。残念ながら、ベルトは同年6月大宮でグラマー・ガールズに敗れ手放しました。
立野:アメリカでは2度のサーキット合わせて約半年。活動期間としては1年半くらいですね。
――WWEでは爆発的な人気でした。現地での生活はいかがでしたか?
立野:人気はダイレクトに感じました。街を歩いていたら「ジャンピング・ボム・エンジェルスだ!」って声をかけられました。
山崎:ポップコーンの紙にサインを求められたりね(笑)。
――山崎さんは、アメリカが合っていたのかもしれませんね。
山崎:どうなんでしょう。でも、遠征に行っていなかったら、今アメリカで暮らすことはなかったでしょうね。
