12.1新宿FACEで「KANREKI CARNIVAL」を開催するJBエンジェルスの山崎五紀(左)と立野記代(右)
全女を退団、別々の道へ
――帰国後、気持ちに変化はありましたか?
山崎:遠征が終わってしばらくして「25歳定年制」じゃないけど、先輩たちが次々に辞めていって、自分も気持ちが少し揺れた時期。でも「今、辞めるタイミングじゃない」とも思った。だから引退式の時に「これからもよろしくお願いします」というメッセージだけ残して、1年間だけジャパン女子プロレスに移籍しました。
――ジャパン女子プロレスでの活動はどうでしたか。
山崎:すぐに「あ、ここに自分のやりたいプロレスはない」と思いました。リングに立っても気持ちが全然入らなくなってしまったんです。「お客さんにも申し訳ないし、だったらやめたほうがいい」そう思って、結婚を機に引退しました。
――1991年に山崎さんは引退後に渡米。立野さんも同年に全女を引退、その翌年1992年、LLPW旗揚げから現役復帰されています。
立野:全女が経営していたカラオケ店で店長をやっていたんですが、バイトとしての給料しかもらえなくて生活できなかったんです。私は中卒で全女に入っているから、何かをやろうと思っても選択肢が少ない。
それで動物が好きだったこともあってトリマーの学校へ行きました。でも生活できるほど稼げないと思って、プロレスに戻りました。夢とかじゃなくて、職業として“一生プロレスで食べていく”と決めたんです。
――LLPWでの活動はいかがでしたか。
立野:全女では身体が小さいほうだったんですが、LLPWでは私は体格が大きい。対戦相手のサイズが変わると戦い方も全然変わりました。自分より小さい相手と当たることが増えて体力的にすごく楽になって、「このままならプロレスを続けていけるな」と思ったんです。
だけどある時、試合中に卵巣が破裂して緊急手術。治ったんですけど、45歳の時にまた破裂してドクターストップ。それで引退しました。
今思えば、もう少し早く見切りをつければよかったんですよね。やっぱり“動けないレスラーがリングに立ってはいけない”っていうのが、自分の考えなので。
