【レック株式会社・永守貴樹】プロレスファンの裾野をもっと広げたい(前編)

「激落ちくんシリーズ」、「バルサン」で有名な総合家庭用品メーカー、レック株式会社の代表取締役社長 永守貴樹さん。「ホームセンタープロレス」や「スーパーマーケットプロレス」の開催、プロレスの興行へのスポンサードなども手掛け、プロレスファンにも有名な存在だ。永守さんは小学生の頃からプロレス好きでタイガーマスクや藤波辰爾、長州力などの選手に憧れていた。そんなプロレスを愛し応援し続ける永守さんにお話を伺った

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初代タイガーマスクに衝撃!高校時代は柔道でインターハイ出場

――永守社長は小さい頃、どんなお子さんでしたか?

永守:親が起業して会社をやっていました。父親は忙しくて、 母親と母方の祖父母と住んでいました。だから親がたくさんいた感じですね。祖母が40歳過ぎてすぐに僕が生まれたので、「祖母」と言っても若かったんです。だから祖母も母親みたいな存在でした。

当時は兼業農家。だから小さい頃から農作業をお手伝いしました。まだその頃は父の会社も今みたいに大きな会社ではなく、家族みんなで父の会社を支えていました。最初から豊かじゃなかったんです。

――プロレスに興味を持たれたのは、どのタイミングですか?

永守:私がプロレスを認識したのは新日本プロレスのタイガーマスク。やっぱり初代タイガーマスクに憧れました。驚異的な身体能力から繰り出される力強く尚且つ華麗な動きに驚愕。そこから一気にプロレスに引き込まれていきました。

また全日本プロレスは、当時関西で土曜日夕方にテレビ放送されていました。学校や塾から帰ってきて、夕食の前に家族で観ていましたね。

――ところで幼いころ、何かスポーツをされていましたか?

永守:小学生の時は学習塾に通うくらいでスポーツは何もやっていなかったですね。でも、「何か運動をした方が良い」と考え、中学生になって柔道を始めました。柔道は自分に合っていて、高校の時にインターハイに出場しました。

――ご自身で「プロレスをやってみよう」と思いましたか?

永守:もちろんプロレスラーに憧れましたし、やってみたいなと思いました。でも私が学生の頃は明確な身長規定がありました。猪木さんや馬場さんをはじめプロレスラーは巨人だったので、「無理だろうな」と。

今でこそ身長が、私とそんなに変わらないレスラーもいらっしゃいますけど、当時は厳しかったですね。学生プロレス(=学プロ)出身なんて叩かれる時代でしたから。

――新日本プロレスの棚橋弘至選手もデビュー当時、「学プロ出身」であることを隠していました。

永守:MEN’Sテイオーが一番叩かれた記憶があります。私が大学生の時、学プロを観にいろいろな大学に行きました。

本当に流血しているから、「プロレスと変わりないじゃないか!」と驚きましたよ。みんな真剣に取り組んでいるけどプロの道は厳しかったですよね。

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