日本だけではなく海外でも活躍する写真家 渞忠之。人物や美術・建築など幅広いジャンルの撮影だけではなく芸術性を問われる映像制作まで手がける。そんな彼は2002年より旧姓・広田さくらを撮り続けている。そして10.10新木場の自主興行では映像撮影を行う。果たしてどのような映像作品になるのだろうか。自身の人生を振り返ってもらいながら、旧姓・広田さくらについて聞いた。

――渞さんは小さい頃はどんな子供でしたか?

渞忠之(以下 渞):小学校は剣道・野球、中学高校はずっとバスケットをしていましたね。ただ通信簿に「協調性ゼロ」と書かれていて、すごく傷つきました(苦笑)。

カメラに興味を持ったのは中学2年の時です。バスケ部にカメラ好きの先輩がいました。彼の家に遊びに行ったら暗室があり「こんな世界があるんだ」と衝撃を受けました。それで新聞配達をしてカメラを買い、バスケ部や周りのものを撮影しました。14歳の時、質屋で2万円位のセトニカを買ったのを覚えています。

その後、高校2年生で地元の写真館の方と知り合い、そこに出入りするようになったのが一つの大きな転機ですね。当時いろいろなカメラ雑誌に投稿、受賞すると図書券を貰えて賞金稼ぎみたいなことをしていました。雑誌によって審査員の好みがあり「この写真は、この雑誌に送ろう」とか考えていましたね。

――そのことを高校生の時に気づいたのですか?

渞:写真館の人たちとの会話の中で学びました。その後、大学に進学。定期的にカメラ雑誌に名前が載っていたので大学に入ったときは結構有名でした(笑)。大学ではバンド三昧、ジャズ喫茶でバイトして夜はアルタの裏にあるロールキャベツの上手いアカシアで賄い付きの皿洗いのバイト生活を送っていました。

ただし夏は修学旅行の付き添いカメラマンという大学の伝統的なバイトがありました。僕の撮影した写真は好評だったのでひと夏に30校くらい担当しました。なぜか栃木県日光がやたら多かった思い出があります(苦笑)。

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