【ガンバレ☆プロレス 翔太(2)】ガンプロに所属した当時、「らしくないこと」をやろうとしていた

9.25ガンバレ☆プロレス後楽園大会で新井健一郎とのタッグ“ハッとしてgood”が持つIJタッグ王座の防衛戦を行う翔太。これまで数々のインディー団体を渡り歩いてきた。(2)はプロレスデビューからガンバレ☆プロレス所属まで。

――大学を卒業されてからU-FILEのSTYLE-Eに参加されたのですか?

翔太:これは在学中ですね。学生プロレス(=学プロ)をやっていて、その練習が週1〜2回ぐらい。試合も文化祭シーズンや夏祭りに限られていました。

ある日、バス停にボクシングをしている留学生の友達がいて別の友達を紹介してくれました。その彼は「僕が格闘技を習っているジムにプロレス教室もあるよ」と教えてくれた。場所は西調布、僕の実家は三鷹市で西調布まで比較的近い。

それで一日体験会に行ったら本来はAKINOさん(OZアカデミー)が毎週教えていたけど、たまたま田村和宏さんがいて「プロレスやらない?」と誘って頂き毎週練習に参加するようになりました。

ただプロレス教室以外にSTYLE-Eの別練習もありました。学プロ・プロレス教室・STYLE-Eと練習をして大学2年生の時にプロレスデビューしたんですよ。

最初は規模が小さく試合数も少なかったけど、だんだん試合数が増えてきたので大学2年の後半に学プロは辞めてプロレスに専念するようにしました。

――STYLE-Eでは、どのくらいの期間活動したのでしょうか?

翔太:STYLE-Eでデビューして1年くらい活動、その後フリーになり1年間沖縄プロレスに行きました。

――それはどのような経緯があったのでしょうか?

翔太:ある日、佐野(直)さんから「沖縄プロレスが住み込みでレスラーを探している」と電話がありました。

その時、大学を休学しプロレスだけで生活がしたかった。沖縄に行けば年間300試合以上プロレスができる。親と揉めましたが基本放任主義なので「行きたければ行けば」と(苦笑)。

ただSTYLE-Eの田村さんには1年沖縄に行くならSTYLE-Eを辞めろと言われました。僕は1年で帰ってくる予定でしたが、どうしても沖縄プロレスに行きたく泣く泣く「辞めます」と告げて沖縄に行きました。

そして1年沖縄プロレスで活動し東京に戻り少しだけフリーの時期を過ごしSTYLE-Eに戻りました。その後、STYLE-Eが解散。それが2012年の年末です。

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