【パラカヌー・瀬立モニカ】東京パラに向けて「メダルを取るため」の種をまく。リオの経験を活かした施策(前編)

――その頃には、すでに西コーチと出会っていたのですか?

瀬立もともと、西コーチとは中学の頃から面識はあったんです。当時は、とても怖い鬼コーチだと思っていました(笑)。今でこそ1年で330日くらい一緒にいますが、指導を受け始めた頃はまだ20日くらいでしたね。

西その時は、指導するのは江東区から任される日程だけでしたので。その後、2016年のリオパラリンピック出場が決まって、1年で150日と、一気に行動を共にする時間が増えました。

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――そのリオ大会を振り返っていただきたいのですが、瀬立選手は初出場ながら8位入賞を果たされました。この結果を受けて、当時はどのような心境だったのでしょう?

瀬立確かに「競技を始めて2年でパラリンピック出場」というのは、聞こえは良いんですけど、決勝に進出した8人の中でダントツのビリだったので、嬉しさ半分、悔しさ半分。これが大会直後の素直な気持ちでした。

それにリオは、実力で勝ち取ったというより「ラッキー」で出場できた大会だったんです。というのも、出場枠は世界で10か国10名しかないのですが、私は最終予選を終えて11番目。普通だったら出場できない状況だったのですが、上位の選手がクラス分けで失格となり、繰り上がりで10位に滑り込んでパラリンピック代表が決まったんです。

そういう形での出場だったからか、当時の私は人格形成とか、競技に対する気持ちが足りていなくて。結果的に、かなりトップから離されての8位と、納得するレースができませんでした。ですがそれも、今となっては次の東京パラリンピックに向けての糧となる、いい経験だったと思っています。

――では、東京大会に向けてすぐに気持ちの切り替えができた、と。

瀬立はい。それについては、リオからの帰りの飛行機の中で西コーチと話していて。こういうことを言うと語弊があるかもしれませんが、「東京のためのリオ」だと。そう捉えるようにしたことで、すぐに気持ちを切り替えることができました。

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