2018年の「第33回キングスカップ世界選手権」にて。女子ダブル種目で銅メダルを獲得した槙尾渚選手(右)と、コーチとしてチームを支えた矢野順也氏(写真/本人提供)
■「噂」を現実に変えた、日本代表への道
――そのころ、協会とは繋がりはあったのでしょうか?
矢野:当時の協会の連絡先を調べたら、会長の自宅の電話番号だったんです(笑)。そこへ電話をかけて情報を集め、少しずつパズルのピースを埋めていくような日々でした。
――矢野さんは、どのように日本代表レベルまで技術を上げたのですか。
矢野:人数が少なかったこともあり、プレーを見た会長から直々に「代表の練習に参加しなさい」と声をかけていただいたのが大きかったです。代表といっても当時はコミュニティが小さく、1990年のアジア競技大会に初めて選手を派遣したばかり。私は1995年に代表チームに加わりましたが、身体能力に優れた人間が集まっていました。

――当時はやはり、サッカー経験者が中心だったのでしょうか。
矢野:圧倒的にサッカー経験者でした。慶應や早稲田、亜細亜大学といった都内の大学にサークルができ始めた時期で、各大学の競技者を全員集めても100人から200人程度。でも、みんなセパタクローの魅力に憑りつかれていました。
全日本選手権も協会発足とほぼ同時に立ち上がり、初期の大会から私たちは真剣勝負を繰り広げていましたね。
――「空中の格闘技」を形にするための修行期間ですね。
矢野:ええ。ただ日本に「教えられる指導者」はいませんでした。ですから私たちの世代は、みんなでタイへ行って、現地の選手に頭を下げて技術を教わることから始めました。
30年前、あの白黒写真に憧れた一人の青年が、本場のコートに立っている。その感慨に浸る余裕もないほど、本場の壁は高く、険しいものでした。
<後編へ続く>
プロフィール 矢野順也(やの じゅんや)
1975年生まれ。小学生の時にテレビで見た一枚のセパタクロー写真に魅了される。日本体育大学入学と同時にセパタクロー部を創設し、本格的に競技を開始。現役時代は日本代表として数々の国際大会に出場し、日本セパタクロー界の礎を築いた。引退後は普及と強化の両面で尽力し、現在は一般社団法人日本セパタクロー協会事務局長として活動。30年以上にわたり競技を支え続ける先駆者であり、2026年9月に愛知で開催される「アジア競技大会」の成功に向けて奔走している。
記事/大楽聡詞
編集/まるスポ編集部
