『断りきれずに始めたカヌーが、人生になった』。杜若高校を日本一へと導き、羽根田卓也選手らを輩出した本田泉氏
■ 「本物」の指導者たちとの出会いと成長
――名前だけの顧問のはずが、実際にはどっぷりとカヌーにのめり込むことになったと。
本田:岡崎市カヌー練習場は実家からの帰り道にあり、様子を見るには好都合でした。
最初に入部した3人が、練習で何度もひっくり返る姿を見て「放っておいたら死んでしまう」と本気で危惧したんです。
それがきっかけで毎日指導へ行くようになりました。ただ、当時は私自身が全くの素人。部員を帰した後の静かな湖面で、彼らに隠れてこっそりパドルを握り、漕ぎ方を体に叩き込む日々でした。
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――そこから、どうやって指導法を学んだのでしょうか?
本田:当時はジュニアの日本選手権などで審判を一緒にやっていた方がすごかったんです。
私は救助艇のボートに乗って、ずっと選手の動きを見ていただけでしたが、横に乗っていたのが、今の陸上自衛隊高等工科学校(当時は少年工科学校)の名監督だった方。
その方に「あいつとこいつの漕ぎはどう違うと思う?」と一つ一つ教えてもらいながら、指導者として成長しました。
――最高の実践教育ですね。
本田:本当に恵まれていました。さらに、ミュンヘン五輪(1972年)のカヌースラローム日本代表である成田昌憲さんとの縁もありました。
成田さんのご実家は岡崎のお寺で、お兄様が当時の愛知県カヌー協会理事長を務めていらしたんです。
その繋がりで、成田さんが大正大学のコーチとして合宿を行っていた現場にも、幸運なことに混ぜていただくことができました。
モーターボートの横に乗って、世界レベルの指導者の言葉を直接聞き、知識を吸収しました。生徒たちがかわいそうだという思いもありましたから、私にできる最大限の努力はしようと必死でしたね。
