ーーボクシング界をフェードアウトされてから、大工をされていたのですか?

新宿鮫:そうですね。24歳の時に「手に職をつけよう」と大工になりました。

ーーここからプロレスの方に行かれるじゃないですか。そのきっかけは何だったんですか?

新宿鮫:ボクシングをやっていた頃はすっかりプロレスを観ていなかったんですけど、友達がプロレス観戦に誘ってくれて、W★INGの戸田スポーツセンター大会(1992年12月20日)を観に行って、メインイベントが松永光弘VSレザーフェイスの釘板デスマッチが面白かったんです。

その再戦が小田原(1993年5月5日 神奈川・小田原駅前市営球場)であって、俺が友達を誘って観に行ったんです。その前座でジ・ウィンガーと異種格闘技戦で対戦していたのがボクサーの木川田(潤)君だったんです。

ーー懐かしい名前ですね。元IBF日本ライト級1位という実績を持つボクサー・木川田潤さんですね。

新宿鮫:その試合を観ていて、「何だ、中途半端なパンチを打ってるんだ」と。試合後に客席の後ろの方で立って別の試合を観ている木川田君に「ボクシング、やってたの?ボクサーならあんなパンチの打ち方はないでしょ」と言っちゃったんです。

彼はIBF日本ライト級1位かもしれないけど、俺は日本王者達とスパーリングしてきたのだから、あれはないなと思ったんです。

ーーIBFは当時、JBC(日本ボクシングコミッション)では認可されていない組織で、新宿鮫さんにはJBCが認可する日本王者達に揉まれてきたという自負もあったわけですね。

新宿鮫:ただこれは後でわかるんですけど。ボクサーとしてプロレスをやるのはずいぶん苦労しました。そもそもボクシングの場合フェイントで隙をついて打つものなので初期は結構相手に怪我させてしまいましたので、段々打ち方変えてるうちネコパンチなんて言われてこのヤローとか思いましたが、プロレスに使える打ち方を色々考えました。ロープに振って殴るなんて最初はこんなことあり得ないとか思いながらやりました。

ーープロレスにおけるボクサーとしてのパンチの打ち方をされるのにかなり苦労があったんですね。

新宿鮫:俺の得意技で、ロープに振ってボディー、前屈みになった所にアッパー、ムーンサルトなんか誰もやってないし、今後誰もやらないいと思います(笑)。話は脱線しましたが、俺と木川田君は同い年で、木川田君から「あれは色々とあるんだよ。

俺、四谷でスナックやっているからうちの店に来てよ」と言われて、そこから木川田君の店によく飲みに行くようになって。その店にW★ING代表の茨城(清志)さんが来ていて、カウンターに座って新しいデスマッチの画を書いていたり、マッチメイクとか考えていたりするんですよ。

ーーおお!!木川田さんの店でW★INGのマッチメイクやデスマッチが決まっていた時期があったんですね(笑)。

新宿鮫:それである日、木川田君から「新格闘プロレスという団体が旗揚げするんだけど、出てみないか」と言われて、一回限りやってみようと思って、プロレスのリングに上がることになったんです。ボクサーVSプロレスラーという形で。

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