アントン・ヘーシンクvs ドン・レオ・ジョナサン【プロレス喧嘩マッチ伝説・番外編】

「プロレスはルールのある喧嘩である」
日本におけるプロレスの父、力道山はこのような名言を残した。たしかにプロレスにはルールがあり、試合はその範疇の中で行われている。 激しい打撃戦、血生臭い流血戦も、ルールに基づいて行われていれば、それはプロレスなのである。
 しかし、プロレスの長い歴史の中では、その範疇を明らかに超えた試合が存在する。 それらの試合を本書では「喧嘩マッチ」と呼ぶ。
 2022年10月27日に発売された書籍『プロレス喧嘩マッチ伝説~あの不穏試合はなぜ生まれたのか?』(ジャスト日本著、彩図社)はいまでは伝説となったそれら喧嘩マッチは、どのようなものだったのか。 その試合は、なぜ起きたのか。 試合映像や選手のインタビュー、雑誌・書籍などから65の喧嘩マッチを考察、その舞台裏に迫る!特別編として、北原光騎氏、齋藤彰俊選手、鈴木秀樹選手のインタビューを掲載している。
今回、ページ数の都合上により泣く泣くカットさせていただいた試合を特別掲載。題して『プロレス喧嘩マッチ伝説・番外編』。

新日本より先に格闘技路線! 王道マットで柔道ジャケットマッチ実現!!
アントン・へーシンクvs ドン・レオ・ジョナサン
(1974年11月5日、大田区体育館/全日本プロレス)

1972年に旗揚げした全日本プロレスは日本プロレスからの遺産と伝統を受け継いだ王道プロレス団体である。

そんな全日本が新日本よりも先駆けて、格闘技路線に着手していたというのはあまり知られていない。なぜ純プロレスの象徴ともいえる全日本が格闘技路線に走ったのか? 

1973年9月26日、NHKのニュースで「東京オリンピック柔道金メダリストのアントン・ヘーシンクがプロレスに転向」という一報が流れた。競技者を引退していたヘーシンクに日本テレビが、全日本プロレス中継の視聴率アップの目玉企画として声をかけたことにより、オリンピック柔道金メダリストのプロレス転向が実現したのである。

ヘーシンクはアメリカ・テキサス州アマリロでザ・ファンクスの指導を受け、同年11月24日に蔵前国技館でジャイアント馬場とタッグを組んでブルーノ・サンマルチノ&カリプス・ハリケーンとデビュー戦を迎え、ハリケーンをアルゼンチン・バックブリーカーでとらえてギブアップ勝ちを収めた。

だが経験不足によるぎこちないプロレスを展開したことで一部のファンから失笑される。柔道着を着ている相手には強いヘーシンクだが、上半身裸の相手には投げや押さえ込みもなかなか通用しない。その後もぎこちなさをなかなか克服できなかったため、マッチメーカーの馬場は「相手に柔道着を着せて試合をさせてみるしかない」と感じたのかもしれない。

そこで導入したのが柔道ジャケットマッチ。実はアメリカンプロレスには古くからこの試合形式があった。要は互いに柔道着を着させてプロレスをさせるのだ。

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