1992年夏の甲子園で千葉県代表・拓大広陵のマウンドに立った杉本忠氏(写真/本人提供)
1992年夏の甲子園で拓大紅陵を準優勝に導き、2003年の第74回都市対抗野球大会ではシダックスの中継ぎのエースとして準優勝に貢献した杉本忠氏。
名将・野村克也氏をはじめ、小枝守氏、山中正竹氏といった球界のレジェンドたちから直接指導を受けた経験を持つ。現在はスポーツ運営に携わる傍ら、指導者として先人から受け継いだ技術を惜しみなく次世代へ伝えている。
「130キロでもプロ野球で活躍できる」と断言する杉本氏。その独自の戦略論、技術論、そして思考法を紐解く。全4回(取材・文/大楽 聡詞)
【第1回:戦略論】「人と同じ」を卒業し、自分の特性を武器に変える勇気
――杉本さんは現在、中学生や高校生の指導をされています。今の時代、大谷翔平選手のような本格派オーバースローが「王道」とされていますが、杉本さんはあえて“サイドスロー”という道を選ばれました。そのきっかけは何だったのでしょうか。
杉本:大学1年生の時、当時の監督から「サイドスローをやってみないか」と言われたのがきっかけでした。当時、同期の投手は6人いましたが、全員が右の本格派。その中で私は一番身長が低かったんです。ただ、ジャンプ力などの瞬発的な身体能力には自信がありました。監督は、私のそのバネのような特性を見て、「サイドの方が活きる」と判断されたのだと思います。
甲子園準優勝・都市対抗野球準優勝ピッチャー、次世代に繋げたい想い
――その提案を、すぐには受け入れられませんでしたか?
杉本:全く無理でしたね(笑)。私は高校時代、上投げ(オーバースロー)で甲子園準優勝という結果を出していましたから。大学でも「上から投げてプロを目指すんだ」という強いこだわりと、根拠のない自信がありました。サイドへの転向を受け入れるまでには、2年ほどかかりました。
――2年も……。何がその頑なな心を動かしたのでしょうか。
杉本:大学3年生の時、150km/hを超えるボールを投げる後輩が入ってきたんです。その姿を見て、「あ、プロに行くのはこういう奴なんだ」と。自分が理想としていた投手像を圧倒的に超える現実を突きつけられた時、ようやく自分の進むべき道はここではないと腑に落ちました。それからは迷わずサイドスローを追求し始めました。
――葛藤しているジュニア選手に対して、今ならどんなアドバイスを贈りますか?
杉本:納得していない子に対して、「サイドにしろ」と無理強いはしません。まずは上投げに未練があるなら、徹底的に挑戦させてあげたい。本人が自分で納得して、「これだ」と決めた時でないと練習は身になりませんから。ただ、一度決めたらサイドスローにはオーバースローにない「圧倒的な魅力」がある。それを伝えて、本人のモチベーションを引き出すのが私の役割だと思っています。
<#2へ続く>
プロフィール
杉本 忠(すぎもと ただし):1975年生まれ千葉県出身。父と兄の影響で小学生から野球を始める。その後、拓大紅陵に進学。高校3年で甲子園に出場し準優勝。大学卒業後、ヨークベニマルで活躍。だが野球部廃部に伴い、シダックスに移籍。野村克也氏より指導を受け、2003年の都市対抗野球大会でチームを準優勝に導いた。現在は、地元高校で投手の臨時コーチを務める。
編集/まるスポ編集部
