「心・技・体のうち”心” が最も重要と考えています」元中日・吉見一起 エースにつながるマウンドでの心構えと飛躍のきっかけ

球団初のリーグ連覇に貢献、11年には投手4冠に

10年は初の開幕投手となり、12勝を挙げチームの優勝に貢献した。そして、吉見が最も輝きを放ったのが11年になる。

前年オフの遊離軟骨除去手術による影響で開幕には間に合わなかったものの、復帰後はエースとしての期待に違わぬ活躍を見せる。内海哲也(当時巨人、現西武)と並ぶ18勝を挙げ2度目の最多勝を獲得。

防御率も1.65と自身2度目の防御率1点台を記録するなど投手4冠(最多勝・最優秀防御率・最高勝率・最多完封)に輝く。チームも最大10ゲーム差離されながらも終盤逆転し、球団史上初のリーグ連覇を果たした。

ポストシーズンでも好調を維持し、クライマックスシリーズではファイナルステージで2勝を挙げ、防御率も0.59とMVP、日本シリーズでは惜しくも日本一は逃したものの、敢闘選手賞に選ばれた。

11年は投手タイトルを総ナメにした

連覇した間のドラゴンズのチーム打率は10年打率.259でリーグ5位、11年打率.228で6位。それでも吉見とチェン・ウェインの両輪が先発の軸を担い、リリーフでは11年シーズンMVPに輝いた浅尾拓也、岩瀬仁紀らが抑える鉄壁の投手陣がチームを支えた。

同年導入された統一球により、ドラゴンズに限らず全球団で打者が影響を受けた中、投手陣のカバーで連覇に導き吉見はまさにその中心にいた。

「 投げている僕としては、我慢強く投げていれば点は取ってくれると信じていました。ただ、そのタイミングを僕はコントロールできない。

なので、『この回は大事だな。この回を抑えたら点を取ってくれる』といった先読みをしながらマウンドに上がっていました。

あとは、点を取ってもらった次の回を大事にしてきたので、そこを必死に抑えることを徹底してきた結果勝つことができました」

12年も途中離脱がありながらも13勝で防御率1.75をマーク。5年連続2桁勝利と2年連続の防御率1点台を達成した。自身初の最多完投や4度目の最多完封も記録し、オフには第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表候補に名を連ねた。

しかし、数々の栄光の裏でプロ入り前からの持病とも言える吉見の肘は再度悲鳴をあげ、限界へと近づいていた。(つづく)

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